Arikaina 2014/02 小笠原とみかん船[3]
 この長兵衛らの報告を受け、幕府は4年後の延宝3年に調査船を派遣。

長崎から航海の名人を呼び寄せ、八丈島から無人島を目指しました。

「十里、廿里、三四十里の間に、所々に小島あり。極南の大島、廻り十五里(●軒小録)」

こうしてはるか南方に位置する無人の島々の存在は、広く人々に知られる所となったのです。

 小笠原諸島はその後、領有権をめぐってアメリカやイギリスと日本の間で争いが起きました。

しかしこの時、幕府が調査船を派遣していたことも、日本が自国領と主張する際に根拠として示されたと伝えられています。

 当初は波にさらわれて消えてしまわないか心配されましたが、隣の島と合体し、どうやら「島」として残りそうな小笠原の新島。

※●は車片に酋
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