Arikaina 2014/5 大野城・広城展示[2]
しかし中央の政変に巻き込まれ、義理はわずか10年ほどで海南を離れることになってしまいました。

その後新しく守護になった畠山氏は大野を離れて広川町の広城に入り、戦国時代まではここが紀伊の中心となることになりました。

畠山氏も現在の広川町役場付近を熱心に開発し、今の町の基礎を作ったと伝えられています。

山名氏と同様、広にも畠山氏に関する伝承が多く残っているとか。

一説には、現在残る広村堤防(浜口御陵が江戸時代に築いたもの)よりさらに古く、ほぼ同じ場所に畠山氏も堤防を築いていたとされています。
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Arikaina
2014/5号
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