Arikaina 2025/3 広川町役場などの移転が白紙に[2]
昭和の南海地震で被害が大きかった場所に移転する(はずだった)

広川町の大事業 役場・耐久中・町民会館の移転が白紙に[2]


「耐久中学校の位置は危険」
"地震の神様"今村明恒さん

 今年1月、政府の地震調査委員会委員長などを勤めた地震学者・津村建四朗さんが亡くなったと朝日新聞などが報じました。津村さんは広川町出身で、'21年に同町の「稲むらの火の館」が配布している「やかただより」に寄稿しています。

 津村さんはその中で、関東大震災の発生を予測し"地震の神様"と呼ばれた地震学者・今村明恒(あきつね)さん(1870〜1948)が広村(現在の広川町)に寄せた文章を紹介しています。

 それによると、今村さんは1927(昭和22)年に広村にあてて文章を寄せ、古くから県や町に対して意見していたことを記しています。当時、広村にはすでに堤防がありましたが、今村さんは川に津波が侵入するさいの危険性について述べていました。

「防波堤の出現は、広川と江上川とを津波侵入の主要な地帯となさしめ、従って津波の主力はいち早くこの地帯に沿うて侵入するから、建造物を他に移すか、避難道路は之を避けて計画すべきであるなどの注意を、小学校の職員室においても陳述したことがある。特に耐久中学校の位置の危険なるはしばしば県当局の注意を促し、余と同県の出身たる(福元)学務部長にことにこれを力説したこともあった(「南海道沖大地震津波 =昭和の南海道大地震津波につき廣村の人々に寄す=」より)

 1946(昭和21)年に昭和の南海地震が発生。広川町でも22名の方が犠牲となりました。津村さんの記述によると、そのうち2名が耐久中学校、18名がその近くの日東紡工場の関係者だったとのことです。

 今村さんは地震に先立つ1940(昭和15)年に津波の基礎知識について解説した冊子を作成し、広川町に多数寄贈していました。前述の「南海道〜」の中で今村さんは「(町に寄贈した冊子が)災害予防に関心をもつ人達に読まれたら被災は大いに軽減されるであろう。(中略)しかし事実は果たしてどうであったろう。鉄扉はすらすら自動的に閉じたか。耐久中学校は如何。江上川には水難者は無かったか。これらは今更、余が問うまでもなく、村の人達が熟知している事実である(カッコ内本紙)」と記述しています。

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